日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

最強のストレス解消方法とは。

 こんにちは。本宮 貴大です。(もとみや たかひろ)です。

今回のテーマは「最強のストレス解消方法とは。」というお話です。

 

ストレス解消には「人助け」が最も効果的です。爽快感を感じることが出来ます。人間には遺伝子レベルで助け合って生きるようにプログラムされているのです。「情けは人の為ならず」明日から小さな親切から始めてみてはいかがでしょう。

 

 私達は様々な場所でストレスにさらされています。そこで、たまってしまったストレスを解消する方法が必要になってくると思います。

 十分な睡眠と取る。お風呂にゆっくりとつかる、スポーツをする、趣味に没頭するなどその方法はたくさんあると思います。しかし、これらの方法はまとまった時間を要するものが多く、時間に追われる日々の中では実践しにくいと思います。

 

 そこで気軽に出来るストレス解消方法をご紹介したいと思います。それは、「人助け」です。アメリカのイェール大学が行った実験です。事前の検査で、精神疾患認知障害などがないことが分かっている18~44歳の被験者77人を対象に、その日に経験したイベントと、人を助けたかどうかについてのアンケートを実施しました。

 14日におよぶアンケートの内容を精査したところ、すべての対象者において、人助けの回数が少なくなるとストレスやネガティブ感情が高まり、より多くの人助けをすることで精神的健康が保たれ、ストレスが和らぐことが分かりました。

 また、強いストレスを受けた日でも、人助けをするとストレスの影響を受けにくいことも分かっています。人助けといってもその内容は、困った様子の人に「何かありましたか?」とちょっとした声をかけることや、相手に道を譲るといったごく簡単なものです。

 

 昔から、「情けは人の為ならず」という言葉がありますが、この意味を正確に理解しておられる方は、意外に少ないです。

 「人への親切はその人の為にならない。」ではなく、正確には「人への親切はその人の為ではなく、巡り巡って自分の為になるから人には親切にしなさい。」という意味なのです。

 例えば電車の中で妊婦の方に席を譲るという行為は実は、その妊婦の方以上に自分がうれしくなるのです。「いかにも良いことをした自分」に自尊心がくすぐられ、自惚れや爽快感となって、自分に幸福感をもたらせてくれるのです。

 

 これは逆のこともいえるのです。他者をいじめたり、侮辱したりすると、巡り巡って、自分に返ってきます。それは罪悪感となって自分に襲いかかってくるのです。あなたの心身は疲れきってしまいます。

 これは、他者を敵視したことによって、巡り巡って「自分を敵視すること」に繋がった結果です。「他人が信用出来ないから、他人に親切に出来ない。」すると、「他人に親切に出来ない自分が嫌い。」と考え、その結果、「他人も嫌い、自分も嫌い」となってしまい、社会の中で自分の居場所を見つけられず、孤立してしまい、精神疾患を患ったり、リストカットなど自殺を測ってみたりと、自分の人生そのものを棒に振ってしまうのです。

 いうまでもなく、人は社会という共同体の中で生活しています。共同体の中で幸福感を得るにはどうしたら良いか。それは、「私は他者に貢献出来る」と思う自己肯定と「周囲の人は私に協力してくれる」と思う他者肯定をした上で初めて、共同体の中に自分の居場所を見つけられ、幸福感を感じられるのです。これをオーストリアの心理学者のルフレッド・アドラーさんは、「共同体感覚」と名付けました。

 

 なぜこんなにまで慈善活動が盛んに行われているか。ボランティア活動が行われているのか。この活動に積極的に取り組んでいる人達は凄く元気のある人が多いです。承認も求めずに、人に親切にした自分はそれだけ「余裕のある人間なのだ。」という爽快感をたくさん得たいからなのです。そのおかげで、ずっと継続してやっていけるのです。

明日からでも実行出来る「他者への小さな親切」を始めてみてはどうでしょう。

以上。

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

【二宮尊徳】超一流の農政改革者から学ぶお金の使い方。

 こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【二宮尊徳】超一流の農政改革者から学ぶお金の使い方。」というお話です。

二宮尊徳はその勤勉さと節約、積善によって農業技術を習得。その功績は高く評価され、ついには幕府に農政指導を依頼されるまでに至った。現代人も彼の思想から学ぶべきことがたくさんあります。

 

 

 前回は工業によって藩政改革を遂げ、雄藩となった藩が出てきたことを述べました。一方で、定信の目指した土地至上主義に応えるように、藩の中には従来通り、農業を復興させることで藩財政の再建を図った藩もありました。

 

 その代表例として小田原藩を挙げてみたいと思います。

 小田原藩農政改革を成功に導いたのが、二宮尊徳です。

 彼の幼名は・・・そうです。金次郎です。二宮金次郎といえば戦前の小学校の校庭に必ず置いてある少年像ですが、薪を担ぎながら勉強するという勤労少年の模範とされていました。

 二宮尊徳は1787年、今の神奈川県小田原市に生まれます。ある大嵐の日、川が決壊する事故が起きます。当時は今みたいなコンクリートの堤防が整備されていませんから、川の決壊は頻繁に発生していたのです。

 家は流され、両親も亡くします。しかし、尊徳は、家を復興するために、農業だけでなく、夜なべ仕事や日雇い仕事に精を出し、蓄財に励みます。その合間に算術や読書を独修し、農政研究も行います。そうした尊徳の地道な努力が実り、家を再興、貯蓄した財力で土地を増やし、地元では有力な地主になることが出来ました。

 

 こうした尊徳の勤勉さと功績は小田原藩主の目に止まります。尊徳は小田原城に呼ばれ、桜町領(栃木県芳賀郡)の農村復興を一任されました。

 尊徳は10年間の期間を与えられ、耕作人口を増やすために他国から百姓を招いたり、農具や用水路を整備したり、干鰯(ほしか)などの効率の良い肥料を導入したりと出来る限りのことを行った。そうして毎日、朝から晩まで農村を巡回し、農民達に勤勉、節約、積善を説いて回るなどの教化政策を行いました。

 その結果、見事、桜町領は復活を遂げました。

 この農政改革手法は全国に知れ渡り、1843年、56歳の時、遂に幕府から天領(幕府の直轄地域)の農政復興を依頼されるまでにいたった。

 

 のちに尊徳の手法は報徳仕法として弟子達に受け継がれ、全国へ普及していき、明治・大正時代になっても報徳仕法は衰えず、全国各地に尊徳の思想を重んじる報徳社が結成されました。それだけでなく、明治国家の農村発展や国民教化策の手法として取り入れられるまでに至りました。

 戦後の民主化政策によって、尊徳の思想は急速に衰えましたが、今現在の私達でも学ぶべきことは非常に多いです。

 

 彼の報徳仕法によれば、「農業とは、自然のままの天道とそれに従い、穀物を得ようと作為する人道により成立つ。」としています。

 

「天道」とは自然環境や境遇、条件など自分達の力ではどうすることも出来ない変えることの出来ない外部環境のことで、宿命や運命と言い換えることも出来ます。

一方で、「人道」とは、自分自身の考え方や行動など自分で変えることが出来る内部環境のことです。

 

 農作物には豊凶というものがあります。苦労して稲を育てても、突然の長雨や、火山の噴火などの不可抗力によって今までの苦労が水の泡になることもしばしばあります。

 しかし、いくら自然を恨んだり、環境を恨んだりしても状況は好転しません。尊徳は、そのような環境下の中で、自分達はどのように考え方を変え、どのように行動を変えるかに全力を注ぐことが大事だと唱えたのです。

 

 幼い頃、川の決壊によって両親を亡くすという自然の脅威を思い知らされた尊徳ならではの考えだと思います。自然という不可抗力的なものを相手にいかに自分達の豊かな生活を手に入れるか。尊徳はこれをずっと考え、答えを導き出したのでしょう。

 

これは、現代の私達にも言えることですよね。

 私達は物事が上手くいかない時、「友達が悪い、親が悪い、配偶者が悪い、先生が悪い、上司が悪い、会社が悪い、国が悪い、社会が悪い、時代が悪い。」など自分の置かれた環境や時代背景、社会情勢などに責任転嫁します。だから自分は悪くないと必死で正当化するのです。そうすれば心が晴れ渡り、楽になるからです。一瞬だけですが・・・

 

 これは江戸時代の人達も同じだったようですね。

 江戸時代とは封建社会であり、朱子学に完全に毒されているので、農民達は文句を言わずに武士達に年貢を収めるために農業に励むことが当たり前の世の中です。

 

 江戸時代中期の思想家である安東昌益は当時の社会情勢を、「武士が農民を支配する差別と搾取の世の中だ」と批判していますが、おそらく当時の農民達も「天気が悪い。土地が悪い。幕府が悪い。藩主が悪い。武士が悪い。時代が悪い。朱子学が悪い」と置かれた状況を嘆いていたでしょう。

 確かに、農民が一番苦労して社会の生命線であるお米を作っているにも関わらす、農民が自然の脅威や重い年貢に苦しむという一番冷遇されていた身分だったのは事実です。

 

 しかし、尊徳はそんな農民達を戒めます。「境遇や条件をいくら嘆いても事態が好転することはない。いくら泣こうが嘆めこうが。そんなエネルギーがあるなら、自分達は何が出来るかを考えなくてはならない。本当に世の中や政治を変えたいのであれば、自らが政治家になるために何をしなければいけないかを考えなくてはいけない。置かれた状況を前提条件とみなすことで初めて物事のスタートラインに立つことが出来るのです。」と。

 

 このように尊徳は農民達の自己変革を通じて、荒廃した農村を復興した人なのです。

 

 では、尊徳の考える「人道」とは、いかなるものなのでしょうか。

それは「収入に応じて支出に限度を設けて生活し、倹約によって生まれた余剰を社会に還元すること。」だとしています。

 

もはや「素晴らしい」の一言に尽きますね。

 

 これは時代を問わず言えることですね。今現在の私達にもこうした悩みを持っている人達はたくさんいます。

 多くの人は収入が増えれば全ての問題が解決すると思っています。しかし、それは大きな間違いです。

 毎月20万円の収入で21万円を遣ってしまう人は、たとえ毎月100万の収入を貰っても101万円を遣ってしまう人なのです。

 与えられた条件下でいかに余裕のある生活を送るか。そのためには自分の感情をコントロールするという自己変革が必要になります。

 

 自己変革が出来ないと、いくら収入が増えてもいつまでも赤字の生活を送る羽目になります。そういう人はいつまでもお金持ちにはまれず、いつまで経っても豊かな暮らしは出来ません。たとえ年収1000万円だろうが。2000万円だろうが。

 

 支出予算を決め、その中で生活をする。いかなる収入であっても、収入-支出=黒字の生活が出来て初めて、収入が増えた時に豊かな生活が出来るようになるのです。

「給料が安い、税金が高い。」と嘆く前に、支出予算を決めて、予算の範囲内で生活をする能力を身につける必要があるのです。

 

家計も経営も、実はびっくりするくらいシンプルなのです。

 

二宮尊徳はそれを徹底していたために、自分の農家だけでなく、小田原藩の依頼や、幕府の依頼など規模が大きくなっても成果を出すことが出来たのです。

 

以上。

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

【マニュファクチュア】日本の産業革命!明治維新の地殻変動の始まり。

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【マニュファクチュア】日本の産業革命明治維新地殻変動の始まり。」というお話です。

江戸時代後期、貨幣経済は全国の農村に普及し、マニュファクチュア(工場制手工業)が成立しました。農民達は農業から工業へと労働形態をシフトさせていきます。これによって大成功を収めた藩が薩摩藩長州藩。いよいよ明治維新地殻変動が水面下ではじまったのです。

 

 

 18世紀後半、農民達が農業を捨てるという現象が起きました。

 「農民が農業を捨てる!?じゃぁその農民は何をやっているの?」と思った方もいるかもしれません。

 実は工場で働くようになったのです。農業ではなく、工業に従事する農民達が現れるようになったのです。

 

 これが18世紀後半から成立する工場制手工業(マニュファクチュア)です。いわば日本独自の産業革命です。今まで農業が主流だった農村に工場が建設され、工業が台頭してきたのです。これはすなわち、資本主義経済の発達を意味します。

 時の老中・田沼意次は貨幣至上主義の政策を行いましたが、彼の政策が上からの変化だとすれば、下からの変化が起きていたのです。今回はそのマニュファクチュアが成立した過程について見ていきたいと思います。

 

 江戸時代中頃から後期にかけて農業以外の産業の発展が顕著になります。例えば、林業、鉱業、水産業、または漆器、陶磁器、製紙、織物といった各地の特産物において著しい発展がみられました。

 しかし、これらは一部の富裕層のみが購買していたため、商品の生産も問屋の注文を受けて農民個人が副業として細々と作っていたに過ぎませんでした。この副業形態を農村家内工業と言います。

 

 例えば、砂糖や塩があれば、普段作っている汁物をより美味しく作ることが出来ますよね。一般庶民だってこれらの特産品が欲しいと思うようになるわけです。

 人間には欲がありますから、はやり便利で最新鋭で快楽を与えてくれるものは欲しいのです。

 

 そんな膨大な需要を逃す手はありません。より多くの人の手に行き渡らせるには、庶民でも買えるような価格に落とす必要があります。そのためには何をすれば良いでしょうか。ヒントは数が少ないと高価になり、数が多いと低価格になります。例えばダイヤモンドと石ころではダイヤモンドは数が少ないから高価であり、石ころは数が少ないから低価になるのです。

 そうです。大量生産が必要になります。そこで豪商達を中心に設備投資として道具や原材料を購入し、農家に前貸しし、製品を作らせるという問屋制家内工業が行われるようになります。

 

 さらに庶民の物欲と購買力はどんどんあがり、大量消費の時代がやってきました。すると、問屋制家内工業では生産が追いつかなくなります。さらに多くの人手を集め、さらに大規模な生産施設が必要になったのです。

 

 そこで問屋自身が大規模な設備投資を行い、広い土地と生産道具を購入し、工場を建設し、労働者を募りました。農民達も農業をやるよりも、工場で働いたほうが効率的に賃金を稼ぐことが出来るため、積極的に工場労働へ応募するようになりました。

 そこに十数人の賃金労働者を雇い規格品を分業制によって大量生産する方向へと移っていきました。これがいわゆるマニュファクチュア(工場制手工業)の成立で、現在の工場勤務の原型とも言えるでしょう。

 

 量産化に対応すべく技術革新もどんどん行われるようになります。織物業では機織り機は「いざり機(ばた)」からのより高性能の「高機」へ。糸撚り機は人力の「紡車」から水力利用した「水力八丁車」へと機械がグレードアップしていきました。

 

 このマニュファクチュアは全国的に広がり、中には藩全体がマニュファクチュアを積極的に推進する動きがみられ、藩自らが工場を建設したり、生産された特産品を藩の専売とし、大成功を収める藩が出てきました。(専売→その藩のみが独占的に特産品を売ること。)

 中でも雄藩としてのしあがったのは・・・そうです。薩摩藩長州藩です。薩摩藩は砂糖の専売、長州藩は紙やロウの専売によって藩政改革に成功したのです。

 こうした大量生産・大量消費の時代とともに徐々に明治維新地殻変動が起き始めていたのです。明治時代以降、日本は急速な西洋化が図られます。その結果、資本主義国家として大きく発展出来たのは、今みてきたようにそれを受け入れる下地が既に出来上がっていたからです。

 

 

 「農民が工場に出勤し、製品を作り、賃金をもらう。」こうした農村の賃金労働のはじまりは、農村を貨幣経済へとどんどん巻き込んでいきます。一方で、農業従事者が減ったことで田畑が荒廃していったことも紛れもない事実です。

 田沼に代わって老中となった松平定信は従来の土地至上主義へ回帰を目指し、自給自足を推進するため、商品作物の栽培を禁止する法令を出します。つまり、「お金儲けのための作物や特産品を作らずに、お米を作れということです。」

 

 ハッキリ言います。この法令、諸藩にとっては全くの不評でした。

 だって、貨幣経済が農村にまで普及し、経済は活性化。さらに技術革新によって飛躍的に経済成長しているというのに、この後に及んでこんな法令・・・・時代錯誤も良い所。

 定信の政治が民衆の反感を買ったのは、これですよ。これ。

 何を考えているのだ。この人は。まったく。

 

  もちろん、工業技術が発展しましたが、かといって農業を疎かにしていいわけではありません。

藩の中には従来通り、農業を復興させることで藩財政の再建を図った藩もあったのです。

つづく。

 

【寛政の改革】松平定信の世直し政策とは?

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【寛政の改革松平定信の世直し政策」というお話です。

 

 わかりやすさを重視するために寛政の改革を書きなおしました。参考までに田沼と定信の違いをならべた表を掲載しておきます。

田沼意次 松平定信
貨幣至上主義 土地至上主義
中央集権化を目指す 地方分権化を目指す
近代的国家の樹立 伝統的国家への回帰
経済発展を優先 社会保証の充実
放任政治 統制政治
快楽主義 禁欲主義

 

 寛政の改革は「打ちこわしによって生まれた改革」と言いました。

凶作→飢饉→米価高騰→一揆・打ちこわしの激化→社会構造の崩壊 

 この一連の流れを押さえていれば寛政の改革をしっかりと頭に入れることが出来ます。それぞれについての解決策こそ、寛政の改革です。

  1. 凶作・飢饉対策
  2. 米価高騰の対策
  3. 一揆・打ちこわしの対策

 前回は寛政の改革の本質的な部分に着目しましたが、今回は具体的にどのような政策をしたのかについてみていきたいと思います。

 寛政の改革の最大の目的は、「崩壊した社会構造を再建すること」。そのためには、諸藩と民衆を自立させ、従来の土地至上社会へ回帰させることでした。

 

 まず、凶作及び飢饉対策をしなければなりません。

 各地の藩に対しては、「囲い米」という制度が設けられます。これは全国の諸藩に社倉や義倉という蔵を設け、毎年米の備蓄をするよう命じたものです。さらに幕府の直轄地域でも蔵を設け、米の備蓄をさせました。

 つまり、「幕府も米を貯蓄しておくから、諸藩も米を貯蓄し、飢饉に備えなさい。」ということです。

 

 農民に対しては、食べ物を求めて江戸に集まった農民を地方の農村に帰らせる旧里帰農令を出します。

つまり、「農業に専念し、自給自足の生活を確立させなさい。」、「米が凶作になっても、別の農作物で乗り切れるようにしなさい。二毛作をどんどんやりなさい。」

ということです。そのために定信は商品作物の禁止をしています。つまり「儲かる農作物より食べられる農作物を栽培せよ。」ということです。

 また、農村では飢饉が起きると食料不足から子育てが困難になります。すると農村では間引きが横行します。間引きとは生まれたばかりの子供を殺すことですが、定信はこれを防ぐために小児養育金を支給しています。

 これ以外にも新たな農地開拓のための開発資金も支給しています。

 

 ではお金で生活している江戸の町人達(職人・商人)はどうすれば良いのでしょう。

 定信は江戸では七分積金をするよう命じます。七分積金とは町内で土地を貸している地主が負担していた町入用(ちょういりよう)と呼ばれる町の運営費用を節約するように命じ、浮いた分の70%を積み立てておく制度です。

 積み立てたお金は以下のことに使われます。

 町内での囲い米の蔵の運営費用に回す。

 飢饉や米価高騰によって生活困窮になった人を救済する。

 病気や老齢で生活苦に陥った住民を救済する。

 これらは当時の言葉で仁政と呼ばれるものです。定信の政策は人を大事にする政策なのです。

 

 次に米価高騰の対策をしなくてはいけません。

 凶作による米不足になれば当然ですが、米価は高騰します。凶作の地域では食料不足という飢饉になるのに対し、凶作とならなかった地域では米価高騰によって米商人達が高く売りつけることで、その差益を得ることが出来ます。すると米商人達にはさらに欲が出てきます。

「もう少し待てば、さらに米の価格が上がり、さらに大儲け出来るのではないか。」と。

 こうして江戸や大坂の米商人達は米を買い占め、売り渋るという事態が発生していたのです。つまり、「一部の身分の人達が大量に米を持っているにも関わらず、本当にお米が欲しい人達の元には届かない」という最悪の事態です。

 

 

 田沼は株仲間を公認することで商人の利益確保を認めると同時に物価統制を行いました。

 田沼は需要と供給という市場原理に任せれば、自然と適正価格に落ち着くのではと考えたのです。

 これが田沼は統制がなく自由で放任的な政治だと言われる理由です。しかし、田沼の放任政治は飢饉によって、米価が高騰するという非常事態に対処出来ず、商人達が私利私欲に走るという資本主義経済が仇となり、飢饉の被害を拡大させてしまったのです。

  そう、田沼は市場原理に人間の欲が入り込むことを見抜けなかったのです。人間は理屈ではなく、感情の生き物です。田沼は‘経済学‘のエキスパートでも‘経済‘のエキスパートではなかったようです。 

 

 一方、定信の場合、専ら物価統制のみを目的とした政策を行っています。定信は株仲間を廃止し、米価統制のために勘定所御用達という幕府直営の組織を設立し、江戸の有力豪商を登用して、米価の調整に当たらせました。

要するに「米の価格は全て幕府が決める。商人達は価格設定に一切関与しないように。」という統制政治のことです。

 

 そして最後に一揆・打ちこわしの対策です。

 一揆・打ちこわしをする人達は基本的に生活苦に陥っている人達で、その人達が幕府や豪商に反旗を翻すことです。

 それを防ぐためには以下のような対策が必要です。

 「貧しい人達を自立させる。」

 「権威ある者に盾つかないように。身分をわきまえさせる。」

 以上のことが必要になります。

 

 飢饉によって農村から江戸に流入してきた無宿人達によって、打ちこわしや盗みなど治安が悪化しました。定信はこのような貧しい層に手に職をつけさせ、社会復帰の手助けを行いました。これが石川島人足寄場です。

 そして、庶民には身分をわきまえた行動をさせる必要があります。定信は寛政異学の禁という法律を作っています。これは「朱子学以外の学問は学んではいけない。」という法律です。朱子学ってどんな学問でしょうか。

 朱子学とは一言でいうと、「人には身分制度がありますよ。したがって身分をわきまえた行動をとりなさい。」という教えです。

 

以上田沼と定信の違いをみながら寛政の改革をのべましたが、田沼は自由権を認めており、一方、定信は平等権を認めていると思います。

 

以上 

次回をお楽しみに。

本宮貴大でした。それでは。

【寛政の改革】田沼VS松平 資本主義VS農本主義【松平定信】

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【寛政の改革】田沼VS松平 資本主義VS農本主義松平定信】」というお話です。

世直しという民衆の期待を背負った松平定信寛政の改革とは「打ちこわし」によって生まれた改革なのです。彼は 貨幣至上主義から従来の土地至上主義へ戻すことで、家康以来の秩序のとれた地方分権という伝統的国家への回帰を目指したのです。

 

 今回から、田沼に代わって老中になった松平定信について述べていきたいと思います。そこで田沼と定信の政策の違いを並べてみました。以下参照。

 

田沼意次 松平定信
貨幣至上主義 土地至上主義
中央集権化を目指す 地方分権化を目指す
近代的国家の樹立 伝統的国家への回帰
経済発展を優先 社会保証の充実
放任政治 統制政治
快楽主義 禁欲主義

 

 

 よく改革派の田沼に対して、定信は保守派・復古的と言われますが、それは表面的な解釈にすぎません。もっと本質を見抜いた上で慎重に検討するべきです。

 

 定信は老中就任から6年で失脚させられますが、その原因は「時代のニーズを把握出来ていなかったから」とか、「思い込んだら脇目も振らず突っ走るタイプだったから」だとか、「清廉潔白で極端な理想主義者だったから」とか言われています。

 酷い場合は、定信のトンチンカンな政策によって、日本は世界から遅れをとり、開国の際、諸外国から不平等条約を結ばされる原因となったと批判する人がいます。

 歴史はどうしても結果論になってしまうため、そのような見方になってしまいますが、結果に対してなら、何とでもいえるのです。

 

 一方で定信が老中に就任した当初は、前時代のである沼時代を揶揄し、定信に対する期待を込めてこんな狂歌が流行りました。

「田や沼や 濁れる後世を あらためて 清く済ませ 白河の水」

 濁りの田沼時代から、清く正しい定信の政治へと移行してくれることを民衆は期待していたのです。そんな期待を背負って1787年、老中・松平定信は華々しくデビューし、「寛政の改革を開始します。

 

 

 定信も世間の期待に応えるよう必死だったのです。定信には定信なりの目的、方針、ポリシーがあっての政策だったのです。

 定信の政治の結果、以下のような狂歌が新たに流行り出したのです。

「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」 

 定信の政治は厳しすぎる。これなら田沼時代の方がまだよかったというこになってしまいました。しかし、これはあくまで定信の政策という手段に対する感想であり、本質をついたものではありません。

 

 定信自身、白河藩という地方政治での大成功で、鳴り物入りで国政に参加したため、いきなり難易度が跳ね上がったことは事実です。喩えるなら、今まで2軍に在籍していた選手が、いきなり1軍で4番でホームランを打てと言われているのですから、相当なプレッシャーだったはずです。

 

  前置きが長くなりましたが、では、定信はいかなる目的で政策を始めたのでしょうか。

 

 1782年から東北地方を中心に天明の飢饉が発生します。

 時の老中・田沼意次による貨幣至上主義では、「貨幣が全てであり、貨幣こそ価値を発揮する道具であり、金にならないモノや事をするのは時間と労力のムダ。稼げないやつはクズだ」とい考え方や価値感となります。

 この思想が天明の飢饉の被害を拡大させてしまったと言って良いでしょう。お米はお金になりますから、優先的に作られます。たとえ東北という寒くて適さない地域であっても作られてしまったのです。しかし、当時の品種改良の技術では到底、対処出来るはずがなく、飢饉の被害を深刻なものにしてしまいました。

 定信はこれを痛烈に批判します。

「地域の特性に根ざした自給自足の生活をしていれば、ここまで犠牲者は出なかったろうに。」

 確かに定信の言う通り。人命よりもお金が優先されてしまったのは疑いのない事実。資本主義の「光」と「影」の「影」の部分が浮き彫りになってしまったのです。

 

 生活困窮者となった東北の農民達は難民となり、食べ物を求めて、仕事を求めて、江戸などの都市部へ流入します。江戸では、打ちこわしが起き、盗みなどの犯罪が増え,治安は悪化します。この治安悪化を招いたのは田沼だということで、田沼は老中を引責辞任します。

 

 もちろん、自然災害という原因もありますが、田沼の貨幣至上主義が招いたことも原因としては十分考えられます。したがって、定信の「寛政の改革」とは、打ちこわしなど混乱した世の中を正すという世直しのための政策になったのです。

 田沼のせいで、このような世の中になったのなら、それを打ち消すような政策をやらなくてはいけません。定信は、田沼とは逆のやり方で、国の秩序を取り戻し、従来の幕藩体制を取り戻そうとしました。 

 

 この時の諸藩の財政は酷いものでした。 

 

 

 特に津軽藩は莫大な借金を抱えており、農民から徴収した年貢米のほとんどを借金のかたとして差し押さえられており、非常時に農民達に配る備蓄米が全くないという大失態を起こしています。

定信はこうした諸藩の甘えた態度も以下のように批判します。

「自分達の地域で発生した問題を、自分達で解決出来ないとは何事だ。情けない。」

 

  田沼は、そんな財政難に苦し諸藩を救済するべく1786年に「貸金会所設立令(かしきんかいしょせつりつれい)」を出していました。貸金会所とは富裕農民や富裕町人、寺社仏閣などあらゆる富裕層から、出資を募り、そのお金を貸金会所に集めて、財政難に苦しむ諸藩に貸し付け、将来、利子付きで返済させ、出資者に利子付きで返還するという現在の銀行のようなものです。 

 定信はこれも中止します。

 

 

 要するに定信の目的は「諸藩も農民も自立しなさい」ということです。その手段が従来の農業に励み、自給自足にこだわるという原始的なものであっために定信が保守派と呼ばれているのでしょう。

 手段はどうであれ、上記のことが定信の政策の「本質」になります。

 

 定信の政策の代表的なものに「囲い米」という制度があります。これは飢饉対策として設けられたもので、全国の諸藩に社倉、義倉という蔵を造らせ、毎年米の備蓄を命じ、幕府の直轄地域でも蔵を設け、備蓄させました。

 つまり、「幕府も米を貯蓄しておくから、諸藩も米を貯蓄し、飢饉に備えなさい。」ということです。

 

 農民に対しても飢饉対策を奨励します。

「米が凶作になっても、別の農作物で乗り切りなさい。二毛作をどんどんやりなさい。」

 近代的な「貨幣至上主義」から従来の「土地至上主義」へ。

 具体的に説明します。例えば、当時灯油の原料である菜種は大変需要があり、お金になります。栽培してビジネスとすれば、かなり儲かるでしょう。しかし、菜種ばかり栽培しては自給自足な生活は当然ですが、成り立ちませんね。土地至上主義とは、お金からではなく、土地から生活の糧を得るようにする必要があります。

 よって定信は商品作物の栽培を禁止します。これで農村に貨幣経済が入り込むことを防ごうとしたのです。

 

 中央集権国家では国が親となり、オシメのとれない地方自治体の世話をするのは、家康以来の幕藩体制の崩壊を意味します。地方に自治の権限を委ねることで地方分権国家へと推し進めようとしたのです。すなわち、

「藩は幕府に甘えるな。金に支配されるな。」

 定信は「諸藩の自立」、「農民の自立」を伝統的国家への回帰によって実現しようとしたのです。

 地方にとって人口減少は、年貢米の激減など藩の財政難に直結する深刻な問題です。地方創生を目的に定信は、旧里帰農奨励令を打ち出します。これは江戸に流入した農民を地方の農村へ帰るよう命令し、農村人口を回復させようとしました。

 

続く

今回も最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

本宮でした。それでは。

 

 

 

You Tubeデビュー、緊張します。

本宮貴大です。

You Tube緊張します。

何やろうかな。

やる気について?

習慣について?

集中力について?

勉強法について?

アリ社会とキリギリス社会について?

歴史について?

やりやすいのはやる気についてかな~

ホワイトボード使います。

以上

ありがとうございました。